カシミールマッサージについて Vol.2
さて、いよいよ書籍「TANTRIC & KASHMIRI MASSAGES」(以下、本書、ということがある。)の内容に踏み込みます。
本書は以下の20章より構成されており、体位などを示す具体的で直感的なイラストが43個も掲載されています。
ですので、本書をざっと読むだけでも、マッサージのバリエーションがぐっと広がります。
なお、著作権に十分に配慮しますので、引用は妥当な範囲に留めます。
(目次)
第1章 :タントラマッサージの系譜
第2章 :感性の再発見
第3章 :タントラの身体観
第4章 :呼吸法
第5章 :チャクラのバランス調整
第6章 :裸体と、触れる技術
第7章 :二人で行うエクササイズ
第8章 :マッサージの準備
第9章 :パートナーとつながる
第10章:タントラマッサージとは
第11章:初学者向けのタントラマッサージ
第12章:伝統的なタントラマッサージ
第13章:カシミールマッサージを始めよう
第14章:カシミールマッサージ(全手順)
第15章:カシミールマッサージ(簡略版)
第16章:生殖器のマッサージ
第17章:セラピー(治癒)としてのマッサージ
第18章:カルサイネイザン
第19章:タントラのグループワーク
第20章:タントラ的な性技能
今回は第1章、タントラマッサージの系譜について私見を交えつつ解説します。ただ、文量が存外に多くなりましたので、二回に分けて連載させていただきます。
さて、まずは僕とタントラとの出会いについてお話します。
僕がタントラという言葉を知ったのは4年前です。そのとき僕は、セックスカウンセラーとして著名なアダム徳永氏の、(超高額で知られる)プライベートレッスンを受けていました。
氏はスローセックスの概念を提唱し、普及させたことでも知られます。尤も、最近の若い方にはあまり知られていませんが、40代以上、特に50代の方には今も信望する方が少なくありません。
さて、レッスン中にアダム氏は、ときおり“宇宙的”な性の世界観について触れていました。エゴを捨てよう、宇宙とつながろう、みたいな趣旨です。そして、ある回にて、非接触の性行為のデモンストレーションを披露してくださりました。
内容はこうです。アダム氏は着衣のまま、脱衣の女性モデルさんに対して、挿入の真似ごとをする。私は当然、困惑。一方、どうやらモデルさんは、本当にエクスタシーに至っている模様です。顔は真っ赤に赤らみ、全身も赤みを帯び、痙攣をしながら、腹の底から唸るようなあえぎ声を絞り出しています。
あっけにとられた僕は、それこそキツネに包まれたような感覚でしたが、モデルさんの反応を見る限り、どうやら事実っぽい。アダム先生は、それがタントラであるとは直接明言しませんでしたが、「タントラ」というワードは口にしていました。私の辞書に<タントラ>という言葉が加わった、記念すべき日です。
そこから冬をまたぎ、翌年の夏。ある出会い系の掲示板で、タントラセラピーを専門とする女性セラピストさんと知り合いました。「タントラ・・・、そういやアダム先生が言うてたあれか」と思い出した僕は、即、コンタクト。待ち合わせ場所に現れたのは、キラキラとしたオーラを放つ、所作も立ち居振る舞いも、特に目元が美しい女性でした。
彼女のタントラセラピーはとても新鮮であり、驚きに溢れていました。呼吸(ブレス)、瞑想、そしてタッチセラピー。それから、カシミールマッサージ。すごい、なんじゃこりゃ? 彼女の繊細かつ大胆なマッサージ技能には、感動すら覚えました。
そんな彼女は、かつてインドに赴き、伝統的なタントラをきちんと修行なさった方であり、正真正銘のタントラセラピストさんです。対して僕は、彼女から直接的または間接的に教わったり、国内で有名な男性タントラセラピストさんの講義を受けたりして、タントラを学びました。最近ではもっぱら、書籍を通してタントラの理解を深めています。そのことが、このたびのブログ連載に繋がったので、縁とは不思議なものです。
そのようにしてタントラに惹かれた僕は、独自に研究を開始。そして、他のマッサージ技術を取り込みながら、自分なりのセンシュアルなマッサージを構築し、今に至ります。
さて、本書「TANTRIC & KASHMIRI MASSAGES」の第1章に進む前に、用語の意味を抑えましょう。タントラとは、サンスクリット語の「タン(拡がる)」と「トライ(自由になる)」とからなる言葉です。
私が前回のブログにて、タントラとは(抑圧した)感情を解放し、自分の中に在(あ)る真の自分に気づく取り組みであると定義したゆえんです。
また、「タン」には知識という意味もあります。ですので、タントラとは、直接的には、知識を拡げることであって、おのれに目覚めるための知識を身につけるプロセスそれ自体である、とも言えます。
ところでこの「タントラ」ですが、この用語は有史の文献に現れてから現在に至るまで、多くの誤解をまとってきました。その最たるものが、タントライコール、セックスであるという一面的な、しかし今日では主流となった認識です。
こうした認識は、「ネオ・タントラ」とも呼ばれており、オショー・ラジニーシ(故人。以下、OSHO)という著名な指導者(グル)の解釈がベースとなっています。
その解釈とはこうです。すなわちOSHOは、人間たるもの性欲を否定せずに素直に受け入れ、そのことにより自分自身を開放し、より大きな自由を獲得しようではないかと述べました。そして、その文脈において性の重要性をことさら強調し、あたかもセックスこそが自我を超克する唯一の手段であるかのように問うたのです。
かかる革新的で、かつ前衛的で、刺激を伴うコンセプトは、当時のインドにおいて、特に若者からの熱狂的な支持を集めました。そうした若者の多くは欧米人であり、彼らはいわゆるニュー・エイジ運動(※)を支持し、高いインテリジェンスを誇っていたとのこと。
(※)Wikipediaによると、ニューエイジ運動とは、20世紀後半に現れた自己意識運動であり、宗教的・疑似宗教的なニュアンスを帯びる。同運動では、人間の潜在能力の無限の可能性を強調したり、宇宙や自然、生命など“大いなるもの(something great)とのつながりが志向されたり、個人の霊性や精神性の向上を探究したりすることが行われた。とくに、「自分を知ること」「自分らしく生きること」に至上の価値が置かれている。
かかるブームはいずれ米国に飛び火し、彼の地でも再燃しましたが、後述のようにOSHOの国外退去に伴い、あっけなく終焉を迎えました。ただ、いまなおOSHOの信者は、米国はもとよりインドでも、そして日本でも数多くおり、彼の著作はいまだ読み継がれています。
そのように、タントラには、OSHOが強調したような性の開放という側面が確かにあります。また、女風セラピストや、お客様にとっては、そうした側面こそが重要ともいえます。とはいえ、そのことばかり強調する今日の風潮に少し疑問符を置くことも有意義でしょう。
タントラとは何かについて、どこかできちんと学び、理解を少し深めることは、悪くない試みです。
さて、漸く本題です。
本書「TANTRIC & KASHMIRI MASSAGES」によると、タントラは、紀元前1500年ころにできたバラモン教の聖典、〈ヴェーダ〉と密接な関係があるとされ、インド哲学の基礎にもなっています。
また、遡ることさらに紀元前3000年ころのインダス文化には、ヨーガのポーズであったり、女神崇拝像の形であったりにおいて、すでにタントラの教えが現れています。この点、本書の第1章によると、タントラという概念は、遠く5500年も以前に端を発しているそうです。
しばらくは口頭で伝承されていたようであり、7世紀ころより「タントラ」の文言が各種文献に現れるようになりました。
タントラの教えは、インドに留まらず、世界の各地、たとえばネパールやチベット、東南アジア、中国にも広がりました。そして日本にも江戸時代にはタントラが伝わっており、密教のいち流派である立川(たてかわ)流として勢力を得ました。もっとも、邪教・邪行扱いされた不遇な流派でもあり、その勢いはやがて減衰し、江戸時代中期には消滅したとされます。
話を元に戻しますね。タントラの理解は、あまりにも一筋縄ではいかないのですが、ひとつに「関係性」という観点が重要です。私たちは常になにかと関わり、誰かと関係しながら生きています。人間関係であれば、親子であり、それから友人であり、恋人の関係です。社会に出たら、もっぱら利害関係に基づいて、他人と交流します。対価を前提とした経済取引こそが、「大人」のつきあいともいえます。
そうした人間関係の原点はやはり、親と子どもです。そして、親子関係には上下のヒエラルキーがあります。親は絶対であり、子どもは親の言いつけを守ります。といいますか、子どもは自分を超えた存在である親に従わなければ、生きていけません。これを宗教的な視点におきかえますと、人間は、絶対的な超越者である神に従わなければならない、ということです。
そこでタントラにも神が登場します。男性神であるシヴァ(Shiva)と、女性神であるシャクティ(Shakti)です。ご存知の方も多いでしょう。そして、両者の派生源には、二元論があります。すなわち、〈プルシャ(purusa)〉という男性原理と、〈プラクリティ〉という女性原理です。東洋思想あれば、陰陽思想が該当するかと思います。陰が女性性であり、陽が男性性である、というコンセプトです。
そして、かかる二元論から、先に述べたOSHOのネオ・タントラ思想が導かれます。すなわち、シヴァ神とシャクティ神との創造的な結合にまで、人間たる男女の交合(セックス)が、精神的にも肉体的にも高められるとき、男女は渾然一体となり、一つの存在になる。それが“解脱”という無二の悦楽である、といった理屈です。
振り返りますと、先に紹介したアダム徳永氏も、レッスン中、「男は男神に、女性は女神となって、一体となり、溶け合わないとならない」と、力説してしました。僕は僕で、「(お喋りもいいが、もっと技術を教えてくれんかなあ)」と内心はボヤいていましたが、彼がいたからこそタントラに首を突っ込めたので、そこはまあええか、とおもてます。
(vol.3に続く)